親方の部屋

思いつきを色々書きます

包囲 1

category:語尽山雲海月情

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9月の長雨の中、時間はマサの周囲を穏やかに流れて彼岸までもうあと2日に迫り、それは献上祭と重なっていた。
田原町の和菓子の老舗『蛸松月』のおはぎを頬張りながら亀屋の調理場で考え事をしているのか、マサは遠くを見つめて座りこんでいた。
想いに区切りをつけたように勢いよく立ち上がり
『ちょっと上野まで行って来る。直ぐに帰る。』と言って店を出た。
大川がふぐの下拵えをしているところへ咲が顔を出した。手には『蛸松月』のおはぎを持っている。
『あのひとは?』
『うん、ちょっと出てる。』
『そっ。じゃ、これ渡しといて。』
そう言ってすぐに立ち去った。
あの夜からマサと咲はお互いの部屋を行き来しなくなっていた。昼ごはんを食べたり、仕事上がりに軽く飲んだりはしていたが、どことなくギクシャクしていた。
咲は話を切り出したかったが、マサの頭の中が献上祭などで満杯なことは分かっていたので言い出せずにいた。

マサが帰り、その日もいつも通りの営業がはじまった。大川は献上祭を2日後に控えて緊張のため眠れないのだと言い、ここのところ数日間、マサの目にもわかるくらい体調不良であった。
梨本はこの一週間ほど姿をみせず、マサも大川も少し困っていた。普段の営業の方は支障ないにしても、2日後に迫った献上祭の打合せと、その後の様々なセレモニー関係の段取りについてまだ全ての指示を受けてはいなかった。
そうこうするうちに梅原が店にやって来た。マサは事情を打ち明けて
『オヤッさんから何か聞いていらっしゃいますか?』と聞いた。
『ん?、知らねぇよ。おめぇ達のオヤジだろう。』
『そうですよね、いや、こちらで解決します。余計な事をお耳に入れてすいませんでした。』とマサは話を切り上げた。

店じまいの時間になっても梨本からの連絡は無かった。
部屋の留守録に小百合から
『お疲れさまです。明後日の献上祭には行かれますか?。私は父の供で参ります。その後の懇親会などにも参加いたしますので‥‥』とメッセージが入っていた。
マサはセカンドバッグから今日上野で買い求めた物をテーブルに置き、グラスに注いだIWハーパーの12年を口に含んだ。
目を閉じると穏やかな風の音が聞こえた。小さな山あいに小さく開けた谷あいの村に、濃い緑の瑞穂を柔らかく撫でるように渡って行く風。
遠い記憶を運んで来る風の音であった。
その夜、マサはなかなか寝付けなかった。心の中にある様々な蟠りが微熱の様にマサの神経をざわつかせていた。
窓から聞こえる雨音が今夜はひどく煩わしいものに思えた。

包囲 2

category:語尽山雲海月情

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雨は朝になっても降り続いていた。

亀屋に着くやいなや大川が声を掛けてきた
『オヤッさんが大変です。すぐに三階の女将さんの所へ行って下さい。』と。
マサが三階に上がり女将に挨拶すると
『マサ、そこに座ってちょうだい。詳しいことは後であの人(梨本)から話があると思うけど、直ぐにK 病院に行ってちょうだい。一週間前の夜に突然に胸が苦しいって言って倒れたの。原因不明の心臓停止をしたらいの。』
『この事を知っているのは?』
『子供達だけよ。』
『なんでまた?』
『今年の初めにも一度病院で医者から厳重注意を受けてたのよ。それから暫くしてあの人から何度もキツく言われてたの。俺が倒れて意識が無くなっても3日間は待てと。その間誰にも話すんじゃないと。4日目になっても意識が戻らなかった、その時はお前に任すと。』
『どうしてですかね?』
『分からないわ。倒れた明け方に直ぐにオペをしてもらって、それで、3日目に意識がはっきり戻ったのよ。昨日は部屋の理事を呼んで幾つかの指示を出してたみたい。』
マサはゆっくりと事態を把握しつつあった。
『マサ、あの人が呼んでるわ。直ぐに来て欲しいって。貴方に話があるんだって。』

白衣の上下のままタクシーで駆けつけて病室に入ったマサは、それが直ぐには梨本だとは分からなかった。初めて見る医療器具、錯綜するチューブやコード、顔を覆うマスク。あまりの現実離れした光景にマサはたじろいだ。
入り口で立ち竦んでいるマサに気づいた梨本はゆっくりと手招きした。
『オヤッさん』
マサは道中考えてきた、あれを訊こう・あれを話さなきゃ、という事の全てを、うまく言葉に出来なかった。
そんなマサを見かねてか、梨本がゆっくりとマスクを外して無理に微笑んだ。そして掠れたか細い声で
『いいかマサ、一回しか言わんからな、よく聞けよ。俺はな、もういつ心臓がとまってもおかしくないってさ。今の医学じゃ、原因も治療法もないんだとさ。だからこれで最後のつもりで話すから、お前もそのつもりで聞いてくれ。』
梨本がマサの手を握って目を瞑って話し始めた。
『俺の調べたところだとな、連盟を関西に売ろうってのはな、梅原に間違いない。梅原はお前を追って血眼になって京都から出てきた黒崎を使って一つの絵を描いたんだよ。黒崎率いる光鱗会の勢力を使って、新友会と拮抗している東庖会の力を削ぎ落とすところから入った。勿論、自分とこの調理場も荒らされたふうに見せかけることもちゃんと工作はしてだ。その後、その不手際を理由に東友会の理事会を抱き込んで、会長を辞任させる。あとは来年春の総会で全庖技連の会長選に出て勝てばいい。どんだけ関西に東庖会預かりの調理場を持っていかれても、所詮は全庖技連の傘下だから、梅原にとってはかわりないってことだよ。誰が払おうと上納金は代わらないからな。そいでよ、梅原の一番の狙いはさ、財団法人への格上げなんだよ。今のままじゃ先細りの板前業界の職人の口いれ屋だろ。人材派遣って言えば聞えはいいが、実態は破落戸板前の巣さ。財団法人になれば、行く先で学校法人格を持ったりできる。で、梅原の頭の切れるところはさ、そういった事業に降りてくる政府からの補助金を狙ってるんだよ。奴は政治家や官僚とのパイプも太い。一番の狙いはその補助金に違
いない。』
『しかしそれで関西がしおらしく我慢しますかね?』
『そこが奴の、今まではツイてたところさ。マサ、お前を梅原は抱き込んで手元に置いて、関西の欲しがってるものを人質にしてるんだよ。そして多分、関西にも渡すつもりはないだろう。』
マサは霧が晴れた思いだった。
ここまで一息に話した梨本はしばらく休んでから
『マサ、明日の献上祭には最初からお前を推薦登録してある。俺が直々に出ると云うのは口だけだ。実際の書類にはお前の名前を書いて、締め切り当日付で申し込んである。俺は最初から心臓が心配で、出る気は無かった。ただ、キナ臭い臭いがしてきてたから、つまらん妨害や雑音からお前を遠ざけておきたかった。』
『そうだったんですか‥‥』
『マサ、もうお前には教えることはないよ、一人前だ。献上祭には昔俺が出て優勝して以来、亀屋からは長い間誰も出していない。』
梨本はひときわ強くマサの手を握って、喘ぎながら言った
『お前は俺の弟子の中にあっては一番光ってる。明日はお前のその腕を見せてやれ。』
『分かりました。もう話さない方がいいです。』
梨本が頷いた。マサは最後に
『オレはオヤッさんに拾われて、この技術を身に付けました。この技術はまだオヤッさんのものです。明日は、オヤッさんから借りたつもりでやってきます。その方が心強いですから。』と静かに声をかけた。
扉を閉める時、一瞬躊躇ったマサに梨本はかすかに手を振った。

亀屋に戻り、事の成り行きを全員に話した後、すぐにマサは部屋へ帰った。帰る道すがらは何も考えてはいなかった。頭は空っぽだった。
しかし、一つの決心はより固いものになっていた。


包囲 3

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部屋の灯りがついているのを見るのは久しぶりだった。
スニーカーが脱いであるということは‥今日は咲は店を休んだのかな‥などと思いながら部屋に入った。
咲は
『おかえりなさい。』と言ってグラスにハーパーを二つ満たした。
そして
『今日は何の日だと思う〜?』と言いながら長い髪をかきあげて耳に掛けて上目遣いにマサを見た。
そしてハーパーをごくりと一口飲み干して
『私の誕生日。忘れてたでしょ。』
『いや。』
『嘘っ。嘘嘘嘘。貴方は嘘つきよ。』
無言のままハーパーを飲み込むマサに咲は立ち上がって、声を大きくして叫んだ
『じゃあ訊くわ。』
『‥‥‥』
『梅原小百合っていうのね。私に黙って店を移るの?。ご婚約おめでとうございます。私は貴方の何だったのかしらね。』
マサは咲の話を聞くうちに目が霞んで頭が痺れてきた。咲が滲んで二人、三人に見える。
咲は涙声になっていた
『貴方が何処で何をするのも自由よ。気にしたことなんか無いわ。でも‥貴方をなくすことだけは耐えられないわ。貴方は私だけのもの。他の誰かに連れ去られるくらいなら‥‥』
マサは本能的に流し台へ向かった。ハーパーに何かしらの薬物が入っていたに違いない。
足がもつれ、薄れる意識の中で水を飲んでは吐き出すのを繰り返した。しかし力尽きて眠りの底に引きずり込まれていった。

鈍い頭痛と共にマサは目を醒ました。カーテンの隙間から洩れる光が乱反射する様に眩しく、起き上がった瞬間、強烈な胃痛により呻いた。
ゆっくりとベッドに這い上がったマサは、そこに俯いて横になっている咲をみつけた。
冷たくなった咲を仰向けに寝かせ、衣服と髪を調えた。
布団を掛けて、腰のあたりで折り返し、指を組んだ。
マサは自分のカバンから昨日上野駅の旅行代理店で購入した二組のチケットを取り出した。3日先に予約された新幹線の片道分の旅券だった。
マサは一つをカバンに戻し、一つを咲の胸に置いて
『誕生日おめでとう、いつだったか咲が行きたいって言ってた、オレの生まれ故郷への切符だよ‥‥これ以外にプレゼントをおもいつかなくてさ‥‥一緒に行こう‥‥連れていくよ。』と言って、ルビーのネックレスを外した。初めて会った時に見たものだった。今も赤く燃えるように美しかった。

酷い頭痛に耐えて、よろけながら雨上がりのアスファルトの上をマサは駅へと歩いた。

マサの居た部屋からは月読命だけが消えていた。
マサのその後を知る者はいない。



送り火

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いったいどれくらい経ったのだろうか。長い記憶のスクリーンから現実に戻った私は東山に灯る送り火を眺めていた。

緩やかに流れ二度とは戻らぬ鴨川の流れ。その川面に映る夜の灯りの上に、過ぎ去った人々の横顔が浮かび上がっては、崩れて、乱れて、流れては消えた。
私の胸の片隅を風が渡っていった。



蒼穹 1

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目を覚ましたマサはそこが車の中だとすぐに分かった。まるで震動を感じない安定感と明るいベージュの本革張りのシートで、そこが梨本の運転するジャガーの中だと思い出した。どれくらい眠っていたのだろうか。練馬で関越自動車道に乗ったのははっきり覚えているが、上信越自動車道に入ったのは分からなかった。随分と長い間眠っていたのだろう。
隣では大川が窓から景色を眺めている。助手席には小野田がいて梨本とゴルフの話をしているようだ。
8月9日、その朝マサは集合時間ぎりぎりで亀屋に着いた。ゴルフ道具を急いで積み込み、二泊目のパーティー用の食材も確認のうえ慎重に積み込んだ。
ラジオからはアース・ウィンド&ファイアーの曲が静に流れている。窓の景色を見ているうちに再び眠りに落ちて、目を覚まされたのは別荘に着いてからだった。
ログハウス調のその別荘は大きく、キッチンと広いメインダイニングの他にゲストルームが大小で15部屋もある。トイレは三ヵ所、風呂は家族用に二つとガラス張りの大浴場が1つある。ベランダと地下室まであり、並のペンションより余程素晴らしい。
着いてから一休みして、梨本を除く全員で掃除と簡単な器具の点検をした。異常はなく、試運転とばかりに掃除したての大浴場へ皆で入った。
梨本は高校大学とラグビーをしていたので巨漢そのものである。高校では花園にも行っており、今でもその体躯にはその片鱗を留めている。小野田は柔道の有段者らしく厚みのある体であり、大川は池袋の空手道場に通っているだけあって硬く引き締まった全身をしている。
それぞれに背中を流し合い、仕事以外の話で盛り上がった。
その夜は簡単な食事で済ませて、アルコールも控え気味で、皆早く床に就いた。

マサは朝早くに目が覚めて、真っ先にシャワーを使い準備を調えた。
トーストと牛乳だけの朝食だが、コースに出る前の独特の高揚感が四人を包んでいてとても旨く感じた。
ゴルフ場に着いたらもうかなりのメンバーは集まっていた。新友会の若い衆達が志願して大会運営の進行係と雑用をこなしていた。
マサはいつも梨本と同じ組でプレーする。梨本がそう決めているからである。今回は最終組から1つ前の組で梅原と同じ組になっている。配られた印刷物には三名しか書かれておらず、もう一人の欄は空いていた。
梨本はクラブハウスの食堂でアイスコーヒーを飲みながら他の部屋の会長達と今日の『にぎり』について話しているらしかった。梨本以外のマサ達三人はスタートを待つ間にパットの練習に熱心だった。
マサは今日のアクシネット型のパターが使いやすく調子がよさそうな予感があって、練習場では手応えを感じていた。
大川、小野田と続いてスタートしていき、マサも梨本達を待ちながらティーグラウンド脇で前の組を眺めていたその時、後方から聞き覚えのある鈴の音の様な声が聞こえてきた。
ピンク色のサンバイザーに白いシャツ、真っ赤なミニスカートに黒いグローブの梅原小百合が木立の間から緩やかにマサに近づき、にっこりと笑って『おどろいた?』と言った。
浅間山をバックにサンバイザーに手を添えて微笑む小百合の回りに夏の日射しが力強く降り注いでいた。
インに入ってから少しずつ立ち直ったもののスコアは散々で終わった。パットはよかったがアプローチに全く精彩がなく、バンカーはあい変わらず苦手だった。
小百合は海外でも経験が豊富らしくアマチュアとしては申し分無い腕前だった。一日マサのコーチの様に付きっきりでアドバイスしてくれた。
マサのティーショットの欠点を修正して、飛距離が伸びたことを自分の事の様に喜ぶ小百合にマサの心に、真夏の空のように抜けるような気持ちのいい風が吹き始めていた。

一足先に別荘へ帰りパーティーの準備を調えて、トイレやバス、寝具も過不足ないことを確めてマサ達三人も着替えた。
マサは全庖技連の役員(親方)達より梨本の個人的な付き合いのある賛助会員への接待で忙しく動いた。梨本とのそれぞれの経緯や交友の機微を全て記憶しているのはマサだけだったからである。
東京とホノルルを行き来するアパレルの高杉社長、不動産賃貸でかなり裕福なのにも関わらず有名高級輸入食品店の社長秘書の遠藤さん、全国一のトンカツ屋チェーンの長尾社長夫妻、浅草の老舗履物店の五代目辻社長、千葉の中堅ゼネコンの横山会長‥と、マサのおおよその担当は十人を越えた。
小野田は8キロを越える一本釣りの鰹をお客の目の前で叩きにして見せ、大川は天麩羅を揚げている。大川はそのソフトな話し方と童顔がウケてか年輩のご婦人がたに人気なようで、天麩羅の指南をしつつ場を盛り上げていた。
マサは炭焼き担当なので広いテラスの真ん中で鮎を串焼きにしたり肉や野菜をバーベキューにして、お客に配って歩いた。飲み物は何でもあったが、梨本と梅原がふざけて作るカクテルが意外にも人気であった。コンペでは梅原が優勝していた。梨本がやはり一番いいスコアだったがハンデの都合で今年も優勝は逃していた。
今年からテラスに持ち出した新しいカラオケの機械が大人気で、後半はウヰスキーやブランデーとチーズやハムなどのみがつまみのカラオケ大会となった。海外からの料理留学生がもの凄い音痴で皆を笑わせたりしてもりあげ、最後は梨本の石原裕次郎の曲で綺麗に締めくくった。
マサ達三人が片付けを終えてメインダイニングで軽くブランデーで乾杯をした時にはもうすでに明け方になっていた。
一旦は床に就いたが眠れずにまた起き出してテラスの椅子に座っていたマサは暗闇をずっと見つめていた。朝の森の匂いのような、噎せるような濃い匂いを感じていた。
空気が小さく揺れてマサの目の前に真っ白いワンピースを纏った小百合が現れた。裸足にスニーカーを履き、胸のペンダントを握り締めながらマサの向かいの椅子に座った。
『眠れないの?』
『ええ。』とマサを見つめる瞳は深い蒼をしていた。一瞬その向こうをさぐろうとしたマサだったが、疲れのためか集中できなかった。森に目をもどしたが「森も小百合の目の奥も同じ様に深く蒼い」と感じていた。
不意にその長い髪をほどいて小百合が言った
『パパには、時々マサさんと逢ってるってことは話してあるの。』と。
『で、会長は何て?』
『マサさんは仕事で忙しいからお邪魔にならないようにって。マサさんは料理の才能があってこれからすごく伸びる大切な人なんだって。』
マサは初めて京都の花鶴の調理場に入った日のことを思い出していた。雨の降る生温い日だった。そこは希望と云うものを持っていなければ一日たりとも耐えられない、ジメジメして暗い、自由のない、若者を木偶の坊にしてしまう悪意に似た空気に満ちている場所だった。床がいつも濡れていて、数えきれない食材と働く人間達の匂いが澱のように淀む場所でもあった。
マサは森からテーブルのグラスに目を戻し
『オレはそんなんじゃないさ。梨本の親父に拾われて、それで何とか生きていける、他に何の取り柄もない、どこにでもいる普通の職人だよ。お嬢さんと逢ったりできる身分の男じゃないんだよ本当は。』
マサがアイスペールの氷を1つつまみ上げて森に投げた。
名前を知らない山鳥が数羽飛び立った。気づけば空が赤く染まってきていた。
『あの日、近いうちに会えるかもしれないと言ったのは今日のことだったんだね。ゴルフ場で現れた時には正直言って驚いたよ。ゴルフが上手なんだね。』
『ありがとう。またマサさんと廻りたいわ。』
小百合が胸のペンダントを掌で優しく包んだ。
その手に一筋の朝日が射し始めていた。





蒼穹 2

category:語尽山雲海月情

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東京へ帰ってからの数日はうだる様な暑さが続いた。マサ、小野田、大川は軽井沢での思い出を肴に毎晩、亀屋で仕事上がりに集まって酒を飲みながらゴルフ談義に夢中になった。昼休みに連れだって近くのビルの屋上の練習場に行ったりした。
練習場の喫茶店でマサが秋の献上祭の話題を持ち出した。話の流れは自然と何故、梨本がマサではなく大川を助手として登録したのかに焦点が絞られたが、結論は出ないままだった。
連れだって帰る道すがらマサは空を見上げた。
軽井沢でのコンペには関西板前らしき人間の姿は見なかった。部屋の会長達に訊いて回る時間も作れなかった。マサは少し焦り少し気味悪く思っていた。亀屋に戻る前に自分の部屋に寄って咲に電話をかけた。
留守録に仕事が終わったら上野の『荒巻寿司』で待ってると入れておいた。
その日は店は暇で、定時の23時に店を出たマサは田原町からタクシーを拾って上野へ向かった。ABABの前で降りて『荒巻寿司』へ入った。
マサはいつも必ずKIRINしか飲まないが、この店が最近入れたアサヒのドライの生ビールを試しに飲んでみる気分になった。
摘まみに鱸の洗いと車海老の茹でたのをとり、板前と話を始めたところに咲はやって来た。
『どうしたの?早いね。』
『暇だったのよ。お客に電話するふりをして店から亀屋にかけたらもう貴方は帰ったって。女将さんが。一足遅れだったみたい。ママに言って早退けさせてもらったの。』
マサは内心また微笑んだ。普段着とメイクのアンバランスさがいつも可笑しいのだ。
『貴方が軽井沢に行ってる間にまた少し分かったわ。新友会と光鱗会が繋がってるって貴方のヨミはどうやら当たってるみたいね。梅原会長は片腕の黒崎を使って全庖技連の預かりの調理場をどんどん光鱗会の配下に置いてるわ。新友会の預かりも減ってるけどそれは見せ掛けのフェイントよ。光鱗会が連れてる納入業者からの契約金が梅原の懐にかなり入ってるらしいわ。』
『そうか。たいへんだったろう、ありがとう。』
『平気よ。役に立てた?』
咲が冷酒をマサのグラスに注いだ。マサはそれをゆっくりと飲み干し
『だけど、何のために?。どんだけ袖の下を脹らまそうと、調理場を預かってその利益を得た方が身入りは大きいに決まってる。新友会の役員達が黙っているのだろうか?。だいいち、東庖会がこれ以上は許さんだろう。』
マサは咲のことも忘れ一人ごちた。

二人は店を出て少し歩いた。仲町通りから吐き出されるように人間が出て来る。
その流れに逆らって湯島の方へ歩いた。咲が腕を組んでマサの目を見て悪戯っぽく笑った。
『ねぇ、帰るのがめんどくさい〜。どっか泊まっていこっ、ねっ。だったらもう一軒行けるも〜ん。』
咲がマサの背中に回って、肩たたきをするようにしてふざけてはしゃいだ。道は少しづつ登り坂になり、灯りも少なくなっていた。
星が見えない空だった。ふいに軽井沢で明け方に小百合とテラスで話した時には星が見えていたことを思い出していた。

次の日はマサは二日酔いで、一日しんどかった。店は二日続いて暇で、支店の喜多山から帰りがけに寄った小野田と飲むことになった。
雷門通りを渡って寿司屋通りを右に入って『とも』という小料理屋に入った。マスターは剽軽者で下ネタの駄洒落が名物みたいな男だったが、若い時には然るべく修行はしたとみえてふぐ調理師の免許証も持っていた。値段は高いが、そのぶん材料は吟味してあるので味に間違いはなかった。それが、ここいらの板前達が集まってくる第一の理由なのだろうとマサは思っていた。
マスターの料理の助手兼接客係の妙(たえ)ちゃんはもう四十を越えているだろう。マスターとは真逆で口数の少ない大人しい人柄だった。ただ可笑しいのは、どの客も最初は面食らうのだが、マスターは150足辰修海修海覆里紡个渓ちゃんは175足叩体重も80銑弔呂△蠅修Δ聞太な大女であることだった。
マサは鱧の皮を焼いて胡瓜と和えた酢の物をたのみ、小野田は合鴨のロース煮込みを注文した。
酒は剣菱の冷やを二人で飲んだ。
小さな店は満席でうるさいほどに賑やかだったが、二人の話を聞いてマスターが話に入ってきた。酒をマスターに注ぎながらマサが
『でさ、関西板前を東京で増やしてさ、梅原会長に何の得があんのかね?』と、訊くとも独り言ともつかないように話した。
『昔は梅原会長はあんなじゃなかったけどよ〜。』
『昔って?』
『今から20年くらい前にさ、関西がこっちに出て来てさ。全庖技連がまだ出来立ての頃でさ、真っ二つに割れちゃってさ。そん時ゃまだ若かった梅原さんが頑張って一つに纏めて戦ってさ。いっときはあちこちでいざこざが絶えなくてさ。』
『少しは聞いてますが。』
『あん時ゃさぁ、梅原さんや梨本さん達世代からみりゃ兄貴分の人がさ、裏で関西と通じててさ、出来たばかりの全庖技連を売ろうとしててね。決着をつけるのにさ、梅原さんや梨本さんは随分と苦い思いをしたらしいぜぇ。』
『それであの時うちのオヤッさんが‥あん時と似てるな‥みたいに梅原会長に言ってたんだ。』

二人は店を出たところで分かれた。
マサが部屋に帰ってシャワーから出たら小百合から電話があった。浅草にいるという。学生時代の友達と上野で食事をして流れて来たらしい。声の感じで酔っているらしかった。
千束のバーを教えて、マサもタクシーで向かった。
地下にあるプールバーに着いたらもう小百合は着いていた。
淡い若草色のサマーニットのアンサンブルを着こなして、白い帽子を脇に置いて座る姿がマリーロランサンの絵のようだった。
小百合の話だと梅原はどうやらマサを自分の店に引き抜こうと考えているらしかった。勿論、梨本と話し合った上でのことらしいが。
『マサさんに楽亭の板長をやってもらいたいらしいの。』
『オレには荷が重いよ。』
『私、もしそうなったら嬉しいわ。』
『ところで最近お父さんの顔を見ないが。』
『代議士さんとしょっちゅう合ってるみたい。秘書さんとか。』
『ふうん。何の話?、仕事の話?』
『分かんない。ただ最近やたらと書類を読んでるわ。ふふ、お勉強苦手なのにねっ。』
『書類かぁ。』
『うん。あ、そう云えば‥多分、労働省関係だと思う。』
『じゃ、連盟関係だねぇ‥。』
今夜は小百合が飲み過ぎているようだった。タクシーをみつけて乗せた。
マサはもう一度バーに戻り、ブランデーを二杯飲んで、タクシーを拾って田原町まで帰った。
空はネオンに焼かれて明るかった。喧騒は幾分静まり、朝までのひととき、わずかにこの街も眠るのだろう。
見上げるとマサの部屋の灯りがついていた。






蒼穹 3

category:語尽山雲海月情

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マサが部屋に戻ったら咲が来ていた。
『おかえりなさい。』
『うん、来てたのか。』
『何処にいたの?、小百合って誰なの?貴方、出掛ける前にシャワー使ったでしょ。』
『お前が知らなくていいことだよ。』

咲は帰っていった。
多分、マサが出掛けた直後にここへやってきたのだろう。このところの留守録を再生したのだろう。
テレビに触れてみた。冷たかった。
テーブルにはグラス一つ出てはいなかった。
咲はずっと何もせず、ただマサの帰りを待っていたのだろうかと思うと、マサは鬱陶しい思いに捕らわれる。
咲が扉を閉めた音がしばらくマサの耳に残った。

それからしばらくはマサは休まず仕事に出続けた。亀屋も喜多山も盆休みはなくずっと営業するため、交代で夏休みを取りに入っていた。マサは20日くらいまで休まずに出勤していた。
亀屋が20日から月末まで夏休みを設けているので、その間に喜多山に出勤しながらも、一週間くらいの連休をもらえることになった。

休みのとある日、マサは小百合に是非にと誘われて大磯のホテルに来ていた。梅原夫妻も一緒で、数日間滞在しているらしかった。
水着の小百合はプールサイドの男達の視線を釘付けにしている。泳ぎも上手く、水から上がってプールローブを纏っている姿もまた眩しかった。
夕食は沈む太陽と水平線を一望できるレストランで食べることになった。
料理はシェフが特別なコースを手掛けたとあって、軽快で斬新な料理だった。日本の食材を上手く使ってあることにマサは感心した。
ワインもカリフォルニア産を合わせていた。北米のシャルドネは、持って生まれた木としての強さが底ににじみ出しているような葡萄なのだと感じた。
梅原が
『小百合からお前の移転の話は聞いたろ?、あれ、暫く凍結な。少なくとも献上祭まではな。』
『オヤジとどんな話になってるんですか?。最近、自分はあんまり梨本のオヤジとじっくり話せてないんです。』
『まぁ、急がず、みい〜んなで話しながらいけばいいさ、みい〜んなでさ。』
梅原は派手な赤いシャツから日に焼けた太い首をのぞかせている。その首には肩がこりそうなくらい太い金のネックレスをしている。今日は上機嫌のようだ。
途中からロゼのカヴァに変えて梅原とマサは一本づつを空けた。
マサは切り出した。
『関西からの‥つまり光鱗会の者らがこのまま東庖会のシマを荒らしていくとどうなりますかね?』
マサは、自分が梅原を疑っているのかいないのかを、どちらとも取れる訊き方になるように神経を尖らせた。
『そりゃ、東庖会さんは困るだろうし、黙っちゃいまいよ。』
『でも、狙った様に効率良くピンポイントでやってますよね。こっちの側に誰か売ってる奴でもいるんじゃないですかね。』
『そんな事、知って何になる?』
『いえ、自分はそんなことにはあまり興味はありません。だいたい自分なりに察しはついてます。あの黒崎って奴は自分を追いかけて京都から来たんだと言っても過言じゃありません。アイツと繋がってる野郎が自分の近い所にいて、全部の絵を描いてる。どの道、顔は割れてくるでしょ。』
『何をする気だ?』
『何もしやしません。ただ、自分も少なからず巻き込まれちゃってるんで、この絵を描いて後で糸を操ってる人間の真の狙いが知りたいんです。』
『知ってどうする?』
『さぁ、知る前から分かりませんよ自分でも。知った後ならわかりますが。』
梅原はデザートを食べ終えて、独り無言で、窓から見える沈む夕陽をじっと見つめていた。

食事を終えたマサは小百合と梅原婦人と共に夜の浜辺を歩いた。
婦人はしきりに楽亭にいらっしゃいと誘ってくれた。
どうやらマサを梅原家に迎えたいようなニュアンスの話もしてくる。小百合を見れば、はにかんだ様に頷きながら聞いている。
星空が、子供の頃に見上げた星空を思い出させる。東京ではこんな風には綺麗には見えない。マサが見とれている間に、気づけば婦人だけが先にホテルへ帰ったらしく、小百合だけが残っていた。
砂浜に腰を下ろして小百合が
『私、こんな綺麗な星空を見たの初めてよ。これからも見れるかなぁ‥マサさんと。』
隣に座った小百合の息遣いが感じられた。マサはそっと小百合の肩を抱き寄せた。

マサは暗い海の波の音を聴いていた。目を瞑った。
星が無くても波はその声を届けるのだろう。小百合の声は波に掻き消されていた。
マサは波にその声を静めてくれとは思わなかった。

遠く浅草の夜空を思い出して咲の横顔が浮かんでは消えた。
波の声が夏の終わりを静かに告げていた。

露見 1

category:語尽山雲海月情

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マサは六本木にある懐石料亭『楽亭』に向かっていた。楽亭は梅原が一代で築き上げた関東きっての料亭であり、大小の独立した茶室・宴会場が中央の池と中庭を囲んでいる、都会の中の異空間であった。
夕方の予約時間にはまだ早い5時前に着いてしまい、マサはしかたなく早めに顔を出した。
驚いたというか意外だったのは、この時間だというのに打ち水が為されてないのに加えて誰も迎えに出てこないことだった。
訝しく思いながら扉を開けたが、玄関にも誰も出て来る気配はない。
ただ、奥から小さな声が聞こえて来る。マサは少し進んで立ち止まり耳を澄ませた。奥からは小百合の押し殺したような声が聞こえて来る。どうやら電話で誰かと話しているみたいだった。
『どうするのよお父さん。どうしても間に合わないの?、もう数名おみえなのよ。朝倉先生もことのほか楽しみにしてらっしゃるわ。』
ハッとして小百合が振り向いた先にマサがいた。小百合の目が少し充血して声もほんのわずかに涙声のようだった。ツワブキの模様の浴衣生地の和服が涼しげであった。纏めあげた後ろ髪にさした白い珊瑚玉の簪が清楚であった。
マサは予約の時間より大幅に早く到着してしまったことを詫びて、持参した胡蝶蘭の鉢を渡した。
『どうかしましたか?』
小百合は俯いてほんの一瞬だけは躊躇したものの、意を決してマサに状況を話した。マサを真っ直ぐに見つめて話す小百合の声はいつも通りの透き通った軽やかさを取り戻していた。
今日の予約は山口県選出の代議士が主催の宴会であるらしく、政財界からはもとより高級官僚まで素性を伏せてまで集まるという、お客側・店側双方にとって間違いのあってはならない重要な宴会である。そこへ今日の昼過ぎになって主催する代議士がお国の下関から航空便で楽亭へ直接、氷詰めの虎ふぐを送り付けてきたのだ。「地元の名産物で大切な招待客に喜んでもらいたいからくれぐれも宜しく頼む。」と朝倉代議士からは電話で挨拶があって、その時点では何の問題もないはずだったのだが。
泊まりがけで群馬の沼田市あたりのゴルフ場へ出かけていたのだが、車の故障で帰るのが遅れるのだそうだ。普段の懐石料理ならば楽亭の職人達でもなんとかなるのだが、殊河豚となるといささか困るのだという。
『今は父以外には河豚を上手に扱える職人は楽亭には置いてないんです。新友会には河豚を上手に扱う職人はたくさんいても、今日に限ってはすぐに来れるほど近いところには配置していないんです。まさか父がこんなことになろうとは思いもよらず、またよりによって朝倉先生が前ぶれもなくあんな河豚をお持ち込みになろうとは。』
調理場はいくぶん沈んだ空気に包まれて、しかし懐石の準備だけは万全に調いつつあった。小百合の視線の意味はマサにはよく分かっていたが、同時に、職人という人種は自分の職域に他人が入ってくるのを極端に嫌うのだということも周知の事だった。
小百合に背中を押されてマサが調理場へ入ると職人達の射すような視線を一斉に浴びた。それはあからさまな敵意であるが、ある意味それは当然のことであるから、マサは却って悪い気はせず、素っ気なく通りいっぺんの挨拶でやり過ごした。
それよりさっきの小百合の言った"あんな河豚"という言葉に小さな引っ掛かりを持っていたマサは
『その河豚を見るだけでも見せてもらえませんかね。』と小百合に訊いた。
そこへ煮方が
『お嬢さん、よその板場の者に触らすんですか?』と語気鋭く反発して割り込んできた。
『じゃあどうするんです?』小百合はまた涙声に戻って訊いた。
側で聞いていたマサは調理場を見回したが、河豚が入っていそうな発泡スチロールらしきものが見当たらないのが不思議であった。中身だけを取り出して冷蔵庫へ移したのか、何処にも発泡スチロールは見当たらない。
そこへ調理場の奥の帳場から女将が降りてきた。
『マサさん、事情が聞いての通りなのよ。あなたの力を貸してくれないかしら。』
『かまいませんが、二つ条件があります。それを呑んでもらえるなら。』
『いいわ。おっしゃい。』
『はい、先ず一つは、すぐに亀屋へ電話していただいて、梨本のオヤッさんに許可をもらって下さいますか。もう一つは、梅原さんの庖丁を、無断にりますが、使わせていただくことになります。よろしいでしょうか。』
女将はじっとマサを見た。ゆっくりと瞬きをして
『貴方にかけるわ。』と静かに言った。
小百合は帯にはせた扇子を握り締めてマサを見た。気配に気づいたのか、マサも小百合を見た。唇の端だけで一瞬だけ微笑んだ。小百合が小さく頷いた。

マサは先ず河豚に驚いた。調理場の裏口から運び込まれた発泡スチロールは6つあり、そのどれもにエアーが送られている。中を開けて、流石のマサも一瞬たじろいで腕時計を見た。
河豚はすべて活かしてあり、4キロ以上はありそうな虎ふぐだった。「あんな河豚」とはこういうことだったのかとようやくマサは合点がいった。
見れば幸いにも梅原の庖丁はマサと同じ場所で誂えた本焼き庖丁である。出刃包丁は9寸ほどあり、マサには願ってもない理想の大きさだった。
しかしもたもたはしていられない。宴会が始まるまでもう一時間もないのである。

夢中で河豚をバラし、水洗いし、皮をすいて茹でた。活かしの虎ふぐの身ほど刺身に造りにくいものはない。
気がつけば玄関が騒がしくなっており、仲居達の動きが緊張感を帯びてきている。間もなく宴会は始まるだろう。
用意された皿は古伊万里の大皿が五枚、どれもみな1尺8寸ほどはありそうであり南蛮人の行列と帆船が描かれた金蘭手である。
マサは慎重に寸法を計測し、七段引きの菊盛りにすることに決めた。時間はもう僅かしかなかった。大広間から戻ってきた小百合が黒く大きな瞳をマサに向けている。「朝倉代議士が河豚はどうしたのかと催促している」と伝えたいのをじっと堪えている。しかし、河豚の薄造りが如何に手間がかかり、如何に時間のかかるものかを小百合自身誰よりもよく知っていた。間に合わなければ、楽亭の名声も地に落ちてしまうことになるのは間違いないであろう。小百合の目から涙が伝った。
マサの右腕が張りつめてきた。左目を静かに閉じて庖丁を持った。心の片隅に「月読命さえあれば怖くはないのだが」という思いは残っていたが、これが今日の巡り合わせだと諦めて、無心になって切りつけていった。


露見 2

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一日おいて梅原から呼び出されてマサは神楽坂の小料理屋へ赴いた。
間口の小さな店だが程よい塩梅に打ち水がしてあり、白磁に綺麗に作られた盛り塩が一層引き立っている。
元は芸者をしていたという女将が出迎えてくれた。
小料理屋とは名ばかりで、奥の小部屋からは更に細い廊下を通って庭の見える広間へと続いている。薄暗い廊下の曲がり角に設えられた明り窓の脇に掛け花入れが下がっている。
立ち止まったマサに廊下の先から声がした。
『夏の白い椿、お好きでいらっしゃいますか。』
『ええ。またこの伊賀の旅枕がいい。』
マサには、その透き通った声でその人が小百合であることはすぐに分かっていた。
部屋に通されるとそこには梅原と楽亭の煮方がいた。マサと小百合が揃って、料理と飲み物が運ばれてきた。要はマサに対する慰労会であった。
雰囲気がほぐれてきた頃に煮方がマサに
『私、噂には聞いてましたが、初めて見ました。驚きました。逆手真一文字という引き方を初めて見ました。』と言ってため息をついた。
小百合は
『そうよ〜、お父さんにも見せたかったわ〜。こぉんなにおっきな河豚をあっという間に卸しちゃったんだから〜。凄いのよ〜マサさんは。』と梅原に言って、マサを見て楽しそうに微笑んだ。
梅原はいつになく日本酒を過ごし料理もよく食べた。マサに窮地を救ってもらったと大袈裟にお礼を言い、
『しかしマサ、お前、献上祭には出ないんだってな。何でだ。』と訊いた。マサは箸を置いて
『さあ自分には分かりません。オヤッさんが決めた事ですから。』と答えていたずらっ子のようにニヤッと笑い
『きっと自分じゃ、脇(助手)としては不安なんじゃないですかね。』と言って、声を出して笑った。
一頻りして煮方がマサに訊いた
『これも噂なんだが、逆手真一文字を使う男は腕斬りの‥』
そこで梅原が
『その話はするな。』と割ってはいった。
マサは俯いて杯を見つめ、残りを飲み干した。

店を出たマサに小百合は付いてきた。梅原の許しも得ていると言った。マサがいつも飲む処に行きたいとせがんだ。地味な大島紬と白い博多献上が今夜の小百合を大人びて見せた。茜色の帯締めの下の紫の独古が芯の強さを感じさせた。
新宿の二丁目で飲み、三丁目で熊本ラーメンを食べた。どの店もマサの馴染みだった。小百合を連れて入るとどの店のどの人間も一瞬見とれ、最初はおそるおそる接していたが、小百合の生来の清々しく飾らない性格がすぐに周りを惹き付けていった。二丁目の如月亭のママ(いや、マスターか)などは「本物のお嬢様ってのを初めて見たわぁ〜。憧れよ、憧れ。」と言ってマサの初めてみる顔をして小百合と話していた。頬を赤くして「あたしぃ、初めて女に惚れたわぁ〜。」と身をよじっていた。
ラーメン屋でも似たようなものだった。小百合が食べるのを従業員も他の客もチラチラと見ていた。食べ終えた後でマスターに「ご馳走さま。おいしかったぁ〜。」と言うとあからさまに真っ赤になり喜んだ。
マサは不思議な子だと思いながら、神楽坂の小料理屋で見た夏の椿に似た思いを胸にいだいていた。

マサは小百合を送り届けて部屋に帰った。テーブルの上に出しっぱなしのウイスキーを飲みながら、暗い部屋でじっと一点を見つめていた。
一昨日、あの場でとっさに閃いて河豚を料理したのだが、マサには一計があった。ああすることにより、遅からず話題になるであろうと。その還流を手繰ってみようと思ったのである。マサはここに至って梅原をはっきりと疑っている。
流れを何処で確かめるかは、来たるあの日しかないだろうと思っている。留守番電話には何も入ってはいなかった。
シャワーを浴びて横になった。
夜の灯りと白い椿が瞼に映った。いつしか眠りに落ちていった。




露見 3

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8月に入っての最初の休みにマサは咲と銀座に出て鉄板焼の店で昼食をとった。
咲によれば、最近は梅原とよくアフターの付き合いがあるのだそうだ。国際通り沿いの寿司屋や上野か湯島あたりの深夜まで開けている焼肉屋に頻繁に連れて行かれるらしい。
店を出た所で別れた。
『私はもう仕事の支度があるから帰るわ。貴方はどうするの。』
『うん、新宿のトシ兄ぃのとこへちょっと顔をだすよ。』
『そう、分かった。今日の貴方、つまらなかったわ。何か別の事、考えてたわよね。じゃっ。』
いつもは似合ってみえるルビーのネックレスが今日は沈んだ、色褪せた只の石のようにぶら下がっていた。銀座の真昼の路上は焼けるように熱かった。

新宿の炉端焼「いろり」の暖簾をくぐった。利明が開店前の準備で慌ただしくしている。
正規の開店時間などお構い無しとばかりもう数組が酒盛りをしている。マサもビールをもらい、利明と一頻りお互いの近況と馬鹿話で時を過ごした。
マサは、秋の献上祭の事、光鱗会にまつわる諸々についての事などを話し、利明からの助言が欲しくて新宿まで来たのであった。がしかし、二人で昔話で大笑いし、懐かしがったり少しだけしんみりしたりしているうちに、もう話すのはよそうと思うようになった。
利明を巻き込みたくなかった。
マサは、ここから先は自分だけでやろうと決めていた。
京都での事、東京へ来ての今までの事の全ての時間や記憶に感謝に似た思いをいだいていた。ここから先、たとえたくさんのものを失うだけの時間しか得られないのだとしても、マサは受け入れる心の準備は整っていた。
利明の、少しふっくらとした笑顔に見送られて「いろり」を後にした。

マサは浅草に戻り、喜多山の小野田に会い、ゴルフコンペと別荘でのパーティーについて打ち合わせをした。
部屋に帰った。留守番電話に小百合からのメッセージが入っていた。
『こんばんはマサさん、小百合です。実は、多分、近いうちにお会い出来そうです。楽しみに待っています。おやすみなさい。』
録音テープが流れるのをぼんやりと聴いていた。
マサにはまた一つの気にかかる疑問が増えていた。秋の献上祭の出場登録から、梨本は何故マサを外したのだろうということだった。

マサがウトウトしかけたところで電話が鳴った。咲からだった。シャワーを浴びて気分をすっきりさせて服装も着代えた。
雷門に程近い、古い焼肉屋の二階で咲は待っていた。普段着にはアンバランスなメイクがマサには可笑しかった。咲は生ビールをよく飲み、ホルモンの鍋をよく食べた。
最近立て続けに情報を仕入れたのだと得意顔だ。梅原にいつも同行している運転手兼付き人にすり寄って何度か食事に誘ったのだという。
『これは間違いないわ。貴方を探して京都から来た黒崎って男を治療した違法営業の医者が梅原の昔馴染みで、そのセンからの人間関係で繋がりができたんだわ。』
『どうりでな。サツに話が回ってねぇみたいだし、そうする気もないらしい。もっともサツと関わって損するのはあっちだけどな。人の庖丁を盗もうとして逆に腕を落とした職人がいる部屋なんかに調理場を任せる店なんかないしな。しかし、黒崎は諦めやしないさ。月読命と逆手真一文字を揃えなくては光鱗会の総帥にはなれない。奴が現総帥の息子である以上、月読命を追うのは奴の宿命なんだろうな。』
その夜は熱帯夜だった。東京に住む誰も彼もが熱病に冒されたように彷徨っていた。マサは咲の部屋に泊り、深い眠りに就いた。

翌朝マサは伝法院近くの違法営業の医者を訪ねた。場所は以前から知っていた。マサの通う「王様ラーメン」の裏手に小さな看板がでていたからである。枇杷の木が生い茂っているため面通りからはよく見えない看板である。
ワケありの怪我を引き受ける、いかがわしくタチの悪い医者だと聞いていた。
予想通り何も聞き出すことは出来なかったが、梅原とは古くからの知己であることは確認できた。

マサが咲の部屋に帰ると、咲は洗濯と掃除をしていた。
汗をかいたからとシャワーに入って、麻の生なりのタンクトップとデニムのミニスカートに気代えた咲は年齢より若く見えた。
浅草公会堂の近くの古い喫茶店に入った。ちょうど昼時でお客は多く、二人は二階席に案内された。マサも咲も空腹だったのでパスタのセットの他にカツサンドも注文した。
『咲、お前、盆にはクニ(故郷)に帰るのか?御殿場って言ったっけ?』
咲はアイスコーヒーのストローで氷を小突きながら、マサの目を見詰めて言った
『帰らない。多分もうずっと。』
マサも咲も長い間無言のまま表の景色を眺めていた。空調の効いた店内とは違い、表を歩く人はみなそれぞれに汗をかきながら思い思いに歩いている。
マサが咲に視線を戻した。
『オレにしてほしいこと、何かあるか?』
『いつか‥でいいわ。貴方の生まれ育ったところを見たいわ。』
マサは咲の目を見て微笑んだ。だが知り合う以前の咲については何も聞こうとはしなかった。興味も無かった。マサはそういう男だった。

喫茶店を出て亀屋へ歩く道すがら、観光客を避けて裏通りへ入るとそこはビルの谷間で日影の路地裏であった。マサは小さな団子屋の前の縁台に咲の手を引いて腰掛けた。
『オレ、この街が好きになったよ。』
両側にビルの建ち並ぶ細い路地裏に一瞬熱い風が走った。
二人の耳に、硝子の風鈴の音が真夏の季節を告げていた。