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真冬のロザリオ 1

category:エチュード

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その日私は仕事で下関にいた。
業界の慣例となった行事に参加するために早朝に家を発ち広島で『のぞみ』に乗り、新下関で山陽本線に乗り換えて下関駅に着いた。広島駅までの間に乗っていたのも山陽本線であり、新下関駅から乗ったのもまた山陽本線であり、私は軽く不思議な感覚にとらわれた。
新下関駅のホームで『私が広島駅まで乗ったあの車両も数時間経てばこの駅のこのホームに、今目の前に滑り込んだ車両と同じ様に入って来るんだろうか?』と思った。
来るにきまっているとわかってはいながらも何故か私は東の広島方向が気になって目をやった。よく晴れてはいるのに空は青くはなく、寒々とした銀色をしていた。

行事の方は盛大に行われ、私も世間馴れしたひとかどの経営者のようにふるまい、そつなく立ち回っては道化を演じた。お開きになり、貸し切りバスにて下関駅に着いた。先輩諸氏に挨拶をし、真っ直ぐに帰るむねを伝えバスを降りた。東京の裕福な先輩などはこれから博多へ移動し数日逗留するらしい。そんな内容の話し声が響いていた。バス停の古びたベンチには一人の老婦人が座っていて、首から丸い珠のついたネックレスをかけていた。その先には銀色の飾りがついているのだろう、婦人はそれをきつく握りしめていた。私はそういうネックレスを何と呼ぶのであったかとふと頭をかすめ、またどこかで見たような思いに立ち止まりかけたが、それだけで通り過ぎ、駅のホームへと急いだ。
『のぞみ』に乗り込み缶ビールを一気に飲み干した私は知らぬ間に眠りに落ちていた。

昭和58年、私は高校3年生であった。ある4月末の土曜日の夜、私は呉市の昭和町に"ツレ"のトシと共にいた。
本通りから少しばかり入った名もない路地にあるラーメン屋『赤牛』が私達の行き付けだった。マスターは普段は無口で難しい顔をして商売しているが、夜の9時ともなればそうでもない。まず店に入れたての生ビールの機械に手を伸ばす。コックを引けばダラダラといくらでもジョッキに出てくるのが嬉しいそうだ。そしてその後はバクダンだ。ジョッキに焼酎を入れておいてその上に生ビールを注ぎ込む。
マスターは客から『チューやん』と呼ばれている。私もそう呼んでいる。本名からきたあだ名なのか焼酎からきたのかどちらにしろいいあだ名だとおもう。酔えば剽軽で面白く客の人気者だ。ただたまに入院するのが心配だ。身体もガリガリに痩せている。以前に、経営が思わしくないのだと、酔って常連客に愚痴っているのを聞いたことがある。チューやんはお父さんから受け継いだこの店が好きなのだろう。儲けや体裁より、何より『赤牛』を守っていきたいのだろう。
そんな『赤牛』の売り上げに貢献するためにその日も私とトシは"チャーシュー麺大盛り・ライス(大)"を黙って食べていた。お父さんから受け継いだ店を大切に思っているチューやんの思いに対する、私達二人のせめてもの小さな無言のエールだった。
私達二人は呉市のはずれにあるちょっとした進学校に通っていたが、その実勉強などはとうの昔に止めてしまい、学校のお荷物生徒になっていた。トシは兄のリュウと二人暮らしでこの街の生まれだった。学校では一応水泳部でインターハイを目指していた。今のトシにはそれだけで生きる目的にできていた。土曜日には屋内市民プールで自主トレして、晩ごはんを食べるために『赤牛』にくるのだった。
私はといえば、自衛隊の施設に設けられた柔道場へ週末は嫌々通っていて、稽古が終わったあとの空腹に絶え切れず毎度『赤牛』へ来てしまうのだった。
何度か顔を会わすうちに言葉を交わすようになって、もう半年くらいになっていた。